芸術の心が分かる? センスは養うべきか、割り切るべきか?
これは、最近妻が中1の長男に送った砂時計。
これを見た長男は「うわあ!メッチャいい!」と凄く気に入った様子。
僕としては…《うーん、分からん。何に使うん?》としか、思えない。
まあ、こーゆーのは、見る人から見たら、洒落たもんなんだろな…
こういうのをいいと思うかどうかって『感性』だよね。
そう、芸術家って感性の塊だよ。だって、常人には理解出来ない域。
センスは無ければ生み出せるのか
でも、感性って何だろね。
僕も芸術ってヤツを分かりたい気持ちは持っているけど…
肝心の感性があるのか?
無いなら植え付ければいいんじゃないか?
単に見慣れていないだけだろう?
いいところを見つけようとする努力が足りないだけだ
……
いや、
そもそも人は努力することで、0を1にすることが出来るのだろうか?
1でもあれば、伸ばしていけるだろうが、その種すら無かったら、どうやったって芽が出ないんじゃないか?
いやいや、自分の可能性を捨てるなよ。
努力にも臨界点があって、もうちょっとで突破出来るかもしれないだろ。
あーだこーだと天使と悪魔が、横から口出しをしてくる。
うるさいな
人のこと、ごちゃごちゃと言って可能性を潰すなよ。
もしかしたら芸術の心が開花するかもしれないだろ、でもな、いつ芽が出るか分からないことに、労力はかけらないだろ。だって他にやることはいくらでもあるんだから。
つまり…
気にしない!!
という諦める訳でもなく、可能性だけは残しておく最も都合の良い結論!
こんな話がある。
「江戸時代からある神社の池の水を抜いて、土を掘り返したら、芽が出てきた」
人は何かの拍子に芽が出て、開花するかもしれない。だから可能性は捨てない方がいい。
だけど、それよりも「メッチャいい!」っていう確かな感性という種を持っているなら、そっちに水やって芽を出して花咲せた方がよっぽど現実的。
少しでも、感性を持っているなら磨けよ。
センスないって思ったら今はその分野にはこだわるな。
ってこと。
そんな話を子どもとした日。